世界の腕時計No.26
カラクリ時計の作者。
月面写真の第一人者。
想像力を掻き立てる
ひとりの時計技術者
独立するときに技術的後ろ盾が欲しくて、カラクリ時計の製作を始めたんです。
 野球で譬えるならば、入団1年目からリリーフとして名を成したピッチャーが、
先発として1回表のマウンドに上がりたい。そんな心情なのだろうか・・・・・。
時計の修理を生業にする技術者が、あるときから自身の時計を製造し始める。
それは、己の技術に磨きをかけるのが目的なのかもしれないし、
言葉では説明することのできない衝動を形にするという根源的な行為なのかもしれない。
ただひとついえるのは、かつてのCMW試験が受験者に課した天真や巻真の別作を応用することによって、時計製作が十分可能になるということだ。

 広島県の福山市に、自作のカラクリ時計を製作する時計技術者がいるという話を聞いたのは、
この連載が始まってすぐのことであった。
初めて作った時計が、先頃放映を終了した「なるほど・ザ・ワールド」で紹介されたという話を筆頭に、
雑誌やテレビなどさまざまなメディアに頻繁に顔を出すという。
佐藤昌三

昭和18年7月24日、広島県福山市生まれ。中学卒業後

 俗世間から離れ、ひっそりとした工房で黙々と作業を積み重ねていく。 旧態依然の時計職人像を払拭するような個性溢れる時計技術者を紹介していこうという趣旨がある一方で、こうしたステレオタイプの時計職人像にも密かな畏敬の念を抱いている我々にとって、福山のまだ見ぬ時計技術者は余りにも俗っぽ過ぎて近寄り難いような気がしていた。

これが紹介の遅れた大きな原因である。
 しかし、彼が時計技術者としての顔をもつ一方で、
日本における月面写真の第一人者でもあるという話を聞くに及んで、我々の中にあった不安材料は一蹴されてしまった。その理由については後ほど言及する。

◆ひょっとすると彼は宇宙を解明しようとした中世の時計師の末裔なのではないか。

 福山駅に降り立つ。
 瀬戸内海で水揚げされたばかりの鮮魚を売る露店の活気に後ろ髪を引かれつつも、それを振り払ってタクシーに飛び乗る。とびきりのご馳走より何よりも、我々のベクトルはすべて福山の時計技術者、佐藤昌三に向いているのだ。
日本における数少ない、カラクリ時計の製作者にして、月面写真家の肩書きをもつ男。
この事実を知っただけでも、時計技術者としての彼の資質の一端が垣間見えてくるようで何やらワクワクする。

 中世ヨーロッパで開花したスコラ神学における「宇宙」の認識を考えてみると非常に分かりやすい。
つまり、宇宙は絶対の知性であるところの神が創造した。ゆえに、その構造は非常に合理的であるはずだという観念である。そして驚くべきことに、この「合理的なる宇宙」をスコラ神学者たちが説明する際に

最も好んで使ったメタファーが、他でもない機械式時計の歯車だったというのだ。

 時計師たちは宇宙の合理的な構造をその手中に収めるために、天体の運行状況を表示する「天文時計」の製作を非常に早い時期から開始している。

記録の上で最も古い機械式時計といわれる、
イギリスのノーウィッチ大聖堂の時計は天文時計だったという事実がそれを端的に物語っているといえよう。

佐藤昌三はひょっとすると、神を理解するために宇宙を「時計という名の人工機械」に置き換えようとした、中世の時計師たちの由緒正しき末裔なのかもしれない。

最も好んで使ったメタファーが、他でもない機械式時計の歯車だったというのだ。

 時計師たちは宇宙の合理的な構造をその手中に収めるために、天体の運行状況を表示する「天文時計」の製作を非常に早い時期から開始している。

記録の上で最も古い機械式時計といわれる、
イギリスのノーウィッチ大聖堂の時計は天文時計だったという事実がそれを端的に物語っているといえよう。

佐藤昌三はひょっとすると、神を理解するために宇宙を「時計という名の人工機械」に置き換えようとした、中世の時計師たちの由緒正しき末裔なのかもしれない。

 浮世離れも甚だしいそんな想念を思い描いていると、福山市内を一望の下に望むことのできる高台にタクシーが急停車した。
「そこに見える坂の途中にある家が佐藤さんのお宅じゃきに」 どうやら地元でもその名は広く知られているらしい。

「アストロクラブふくやま」と書かれた看板が目を引くだけのこぢんまりとした一軒家。まるで世間と容易にコミュニケートするのを拒むかのように隔絶とした雰囲気が流れる。

「開業した当時は3年か5年で市街地に出ようと思ったんですが、今はホンマ出れませんね。
家賃も高いし、たとえ出たとしてもせいぜいクオーツの電池交換が増えるくらいでしょうから。それに僕は静かなところでないと仕事の能率がどうにも上がらんのですわ」

 佐藤昌三は昭和18年に、今も住む福山で誕生した。
大工であった父の血を受け継いだのだろう、幼少の頃から手先が非常に器用だった。
おもちゃの潜水艦やコマ、釣りに使う浮き具などをぱぱっとこしらえては、近所の子供たちを驚かせていたという。
そんな生来の資質を見ながら一緒に成長した友人たちは、
彼がカラクリ時計の作者として名を成したことに対して、格段驚きもしないという。

 中学卒業後、削りかつお節の製造所に入社したものの、どうもしっくりこない。
「あぁ、これは自分の仕事ではない、と最初から思いましたね」

 ほどなくして電力消費量の測定器を組み立てる仕事に就いた佐藤は、
歯車の組み立てをしている際に、小学生の頃に分解した覚えのある、
目覚まし時計の精緻なメカニズムが鮮烈にフラッシュバックした。
これがもしかすると、自分の天職になるかもしれない。
不思議な確信に導かれるかのように、当時17歳の佐藤少年は
「東京時計研究所」が主催する時計技術者のための通信講座を受講することになり、
3年半後には大きなクロックの分解掃除をこなせるまでに技術を習得していた。独学の徒である。

 昭和38年、佐藤はいよいよ、念願だった時計修理技術の世界へ足を踏み入れることになる。
福山市内の時計店に就職が決定したのだ。
◆老若男女に喜ばれるカラクリ時計の数々はすべてが逆さ時計の製作から始まった。

「ある物はテレビを見ていてパッとアイデアがひらめきましたし、まあまちまちですね。
ただ、アイデアが一度出れば、それは50パーセント完成したようなものです。
あるときはカラクリ、あるときは奇想天外な時計、またあるときは、江戸時代の時計を復元したりと。
だいたい統一しているのは、原動力がゼンマイだということです」

 佐藤の自宅兼工房を訪れた我々は、
彼が毎年、時の記念日に合わせて発表する自作のカラクリ時計がところ狭しと並べられた居間へ案内された。
その数ははや17作に達しており、間もなく18作目が完成する。
自慢の我が子を披露する喜びにも似た、素敵な笑顔と語り口で一作ずつ、その機構と製作における苦労を語ってくれた。

 20歳で時計店へ就職した佐藤は、1日も早く一人前の技術者になるべく、
通常業務が終了した後も、ひとり黙々と部品作りに励んだり、
ムラキ時計が主催する通信教育を受講していた。この通信教育で彼は非常に多くのものを学んだという。
「お店に入っていわゆる師匠に教えてもらったことは殆ど役に立ちませんでしたね。
ムラキの通信教育で学んだ技術の方がなんぼ良かったか分かりません。
僕が当時史上最年少といわれた23歳でCMW試験に合格したのも、ムラキの勉強があってこそだった」

 時計店での仕事は楽しくて仕方がなかったが、
理論的な部分を一切無視した旧態依然のいわゆる”職人芸”の非合理性には早くから拒絶反応を示していたという。
例えば、振り子時計の振り子を調整する技術において、調整ネジを下げて、これ以上、下がらないという場合、年配の技術者たちは錘を吊るして調整しようとした。しかし、振り子は重さではなく、
何の変哲もない柱時計と思いきや、さにあらず。天地を逆にした「逆さ時計」である。クイズ番組でも取り上げられた、思い出深い作品

テンプ式掛け時計、カラクリ目覚まし時計、六角スケール置き時計、月齢時計、印籠時計・・・・名前を聞いただけではにわかに意匠も機能も想像できない。不思議な魅力をたたえたカラクリ時計の数々が並ぶ
「しかし、独立するからには他の人より秀でた技術がないとお客さんはついてくれない。
長さで変わることを学んでいた佐藤にとって、それは非論理的以外の何ものでもなかった。
だから、通信教育や文献を繙き、それを実践する方法で、彼は修理技術の殆どすべてを身につけてしまった。 入店から16年後の昭和54年。時計店で楽しく勤めていた彼に大きな転機が訪れた。退店余儀なくされたのだ。彼自身「一生勤め上げよう」と考えていたが、
自身で培ってきた技術にさらに磨きをかける意味と、ある面では宣伝効果を狙って、
独立した年から自分で時計を作ることにしたんですよ」 こうして誕生したのが、天地を逆にした奇想天外な柱時計「逆さ時計」である。
物理的な難しさも含めて完成には5ヶ月を要した。しかしその努力の甲斐あってか、
時代はクオーツと高性能の自動巻き腕時計全盛期。時計の修理技術が徐々にではあるが、蔑ろにされ始めた時期である。修理がなくて手が空いている時間は、店番をするようにとの店側の申し伝えに彼は反発するかたちで退店した。独立する時期としては最悪だが、それでも福山市内にはまだまだ自分と家族が食べていけるだけの修理はあると考えたのだ。 前述のクイズ番組に取り上げられるという、
この上もなく幸先の良いスタートを切ることができたのである。

以来、彼が時の記念日に合わせてユニークなカラクリ時計を製作することが年を重ねるごとに広く知られることになり、
今ではこの日になると、地元の新聞社を筆頭に全国各地から多数のメディアが佐藤家を訪れるようになった。

「これが鐘つき時計、その隣がカラクリ目覚まし時計。その隣が逆さ時計とよう似とるんだけれども、逆振り子時計いうんですよ。
これは長針と短針が逆転した時計、その隣が分針の軸を固定して機械全体が回転する仕組みになった回転時計。
どうです面白いでしょう」


 その他にも、15分おきにチャイムが鳴って、髪の毛まで彫り込んだ人形の首と手が動き出す「ピノキオ」や、
人形がオルゴールの曲に連動して作動する「エリーゼのために」(もちろん、同名の曲からその名が付けられている)などなど、いつかどこかで見たような、しかし決して他では見ることのできない、ユニークな時計たちが並ぶ。
これなら、子供から大人まで誰もが楽しめるはずだ。
事実、時の記念日に新作を発表すると、全国各地からの修理依頼(それも部品の別作を必要とする難しいものばかりだ)、
あのカラクリ時計を自分のためにもう1個製作してほしいという注文、
さらには地元の幼稚園や小学校からの見学依頼などが殺到する。
地球から38万キロ離れた地点の 直径わずか
2〜3キロの
クレ|
タ|を撮影するんですよ
 「カラクリ時計を製作するに際して考えた宣伝効果は十分上がっていますね」と少々意地悪な質問を投げかけたところ、
「まぁおかげさんで地元ではちょっとした有名人になりました。でも現実は厳しくて、食うていくのはなかなか大変です」とニコニコしながら語ってくれた佐藤昌三。

時計修理、そしてそこから派生した製作の技術を殆ど独学で学んだという自負から「僕が直せない時計は決してない」と自信たっぷりに語る反面、厳しい現実を隠そうともしない、ある意味では子供のような無防備さが、ともすれば傲慢にも映じる彼の人間性をうまい具合に中和しているような気がした。

 さて、前述の宣伝効果という面での成功よりさらに重要な、自身の技術的な底上げに関してはどのような成果が出たのだろうか。

「ある年に、日本が不定時法だった江戸時代の尺時計を復元したんですが、
当時のいわゆる和時計は---櫓時計なんかもまったく同じなんですが---歯車などは硬い鉄でできてるんです。
道具のない時代にようこれだけのもんを作ったな、と感心するし、昔の人が恵まれない条件でこれだけやっとるんだから、
僕にも絶対できんことない思うて頑張るんです」

 彼が和時計を製作する場合、当時の製法にできる限り近づけるために、例えば歯車などは歯切れ板を1個ずつ分度器で歯割りして製図するという。ウォッチなどではないにせよ、歯車1枚に60もの歯を切る作業は、我々が想像する以上に難しいようだ。

 他にも、「コトンコトン」という心地好い響きを奏でる、テンプ式の「振り子時計」(振り子時計の調速機である振り子をテンプ式に改造したもの)は、彼の製作する一連のカラクリ時計全体に通じる、譬えようもない温かみを説明する上で、欠かすことのできない存在だろう。

「動きを優雅に見せようと思いまして、このテンプは1.2秒に1回しか往復しないんです。つまり1分間に50往復です。もちろん、このテンプはヒゲゼンマイも含めてすべて別作です。ゆっくりゆっくりコトコトいいながら動くその姿を見ていると、ホンマ落ち着くんですよ。で、あるときその話を地元の新聞記者に話したら『佐藤さん、これ人間の脈拍数に近いからじゃないですか』いうんですよ。なるほどなと思いましたね」

 贅の限りを尽くした西洋や東洋のカラクリ時計を見るたびに感じる、あの息苦しいまでの緊張感。
王候貴族から命を受けた腕利きの時計職人たちが、
微に入り、細を穿ったであろう製造の過程をどうしても想像してしまって素直に楽しむことができないのとは大違いだ。
もちろん、佐藤の作るカラクリ時計がローコストにして製作過程も単純だといっているわけではない。
事実、彼は殆どすべての作業を自分の手でこなすし、
ケース素材などは、日本の二代銘木と称される桑の木を惜しげもなく使う。
であるにもかかわらず、彼の製作するカラクリ時計は牧歌的な趣が非常に強い。
これは確かに、穏やかな福山という土地の地方性もあるだろう。
しかしそれ以上に、佐藤昌三の人間性に負うところが大きいのではないか。

 饒舌では決してないが、自身の仕事に対する姿勢を穏やかな広島弁で語る姿を眺めていると、
人間としての、そして時計技術者としての佐藤昌三を映し出す鏡のような役割を、カラクリ時計たちが担っている。

 タクシーの中で思い描いたスコラ神学華やかなりし時代に活躍した時計師たちの末裔なのではないかという想像といい、
どうやら彼は人間がもつロマンティストとしての側面を引き出す才覚を---意識するしないにかかわらず---備えているようである。
◆月面上にミクロを追い時計の中にマクロを見出す。工房と裏庭の広大な世界。
 取材もひと通り終わり、中学校2年生のときに1週間アルバイトをして購入したという、
三省堂の『学習百科辞典』をパラパラと眺めていると、突然彼は「家の裏庭にでも行ってみましょうかね」と我々を促した。
何やらいわくありげな顔つきをしているので、もしやと思ったのだが、やはりそこには、我々の期待しているものがあった。カラクリ時計の話に終始した取材だったので、すっかり忘れていたが、当初はこれを確認するのが大きな目的だったのだ。

 木材と塩化ビニールパイプでできた簡素な骨格の上に、農業用のシートが2枚かかっている。
そのシートをおもむろに外すと、筒の直径25センチの大型望遠鏡が姿を現したのである。
「佐藤月面観測所」といった趣の、あまりに異質な光景に我々がしばし絶句していると、彼はその驚きを遮るかのように「僕ぐらいのキャリアがあったら、本当は40センチくらいのを使うのがベストなんだけど、


値段が1000万円以上もするんですよ。だから我慢している。この望遠鏡、クルマでいうたら軽自動車程度のものなんです」と自身の腕前を誇らしげに語った。 今から20年程前に、あるカメラ雑誌で、偶然目に留まった月面写真に、例えようのないほどの感動を覚えた佐藤は、
自分でも月面の写真を撮影するようになる。以来、カメラ誌に投稿を重ね、入選回数は200回以上を数えるという。そして今では、日本における月面写真の、押しも押されぬ第一人者として、
共著2冊の本を上梓するまでにいたったのである(『図説月面ガイド』(立風書房)、『天体写真テクニック』誠文堂新光社)。
また福山市内に住むアマチュア天文家の人たちと、「アストロクラブふくやま」を組織して、その代表としても活躍している。
高校生から学校の理科の先生、医師、70歳を過ぎたご老人まで、会員の顔ぶれは非常に幅広い。
「天体写真は月面に始まって月面に終わるなんていわれるくらい、月面写真は奥が深く、終わりがないんです。
僕たちが常に目指しているのは、より小さなクレーターをフィルムに収めることです。
考えてみてください。地球から38万キロも離れた天体の、直径わずか2〜3キロのクレーターを撮るんですから。
これは考えてみるともの凄いことなんですよ。
そうそう、終わりがないという意味では、時計の修理、そして製作の仕事とまったく同じですね。
僕は答えがよう見つからんものに、もしかしたら魅かれるのかもしれない。

 賢明な読者諸氏であれば、もうお気づきであろう。
佐藤昌三は大宇宙の中にミクロを追い求め、時計という名の小宇宙の中にマクロを見出しているのだ。
それはあたかも、中世の時計師たちが、宇宙の構造を解き明かそうと躍起になったかのように。
ただ違うのは、そこに信仰心があるかないか、ただそれだけ。
現代の時計師は、自分が抱いた初期衝動をそのまま実行に移すだけの、極めて個人的な意思と表現力がなければならない。
そこには、観念などが入り込む余地は一切ないのだ。
「これ重力時計いうんですよ。重さが1.5キロほどあるんですが、その重みで動くようになっとるんです。
これは昔、ヨーロッパのあるメーカーが作っていたものと同じなんですが、何せ現物を見たことがないので、
構造がまったく解らない。作るのには苦労しました。
文字盤には僕の撮影した月のクレーター写真をはめ込んでみたんです。横着してね。でも意外と人気が高くて・・・・・」

 彼が多くの先達と同じように、時計史において未来永劫その名を残すかどうかは、後世の判断に委ねるとしたい。
そう、「時」の経過はすべての疑問に必ずや明確な回答を与えてくれるのだから。
今はただ、時計修理から一歩踏み出した、時計の製作という現場で彼がいかに良質の作品を創造するか、
それを読者諸氏と共に毎年の楽しみとするに留めておきたい。
(文中敬称略)

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